イタリアのジェノヴァで、数十億円規模のスーパーヨットの整備・改修に携わる日本人エンジニア 吉田友香子(よしだ ゆかこ)氏。建築から異分野へ転身した経緯や、現場で働き感じるスーパーヨット業界の動向、そして日本市場への期待についてインタビューを行いました。
この記事は、インタビューの前半です(後半はこちら)。下記目次から関心のあるテーマへすぐに移動していただけます。
【前編】キャリアと日本的働き方の強み
Q1:大学や大学院ではどのようなことを学ばれていたのですか?
学部では建築設計を専攻していました。CADが大学に導入される前でしたので、図面はすべて手書き。製図室に泊まり込んで模型を作り、撮影するような日々を過ごしていました。そうした中で次第に、建物そのものよりも、それを取り巻く「都市の構造」や「人の暮らしとの関係性」に興味が移っていったように思います。
特に魅かれたのは、歴史的な建築遺産を大切に残しながら、現代都市としても機能しているヨーロッパの街並みです。中でもイタリアは、歴史と日常生活が重層的に共存しており、とても印象深く感じました。
そこで、日本の大学院の修士課程では都市史を深く学び、さらにイタリアの大学院の博士課程に進んで、地域発展史と現在都市に関する研究を行いました。幸いイタリア政府と大学から奨学金を受けることができたので、経済的にも、 精神的にも支えられながら研究に集中できました。
Q2:都市や地域発展の研究から、どうやってスーパーヨット業界に?
♦ 建築から海へ—異分野からの挑戦
博士課程修了後、日本で研究者の道を歩むか、イタリアに残って日伊交流を活かす道を模索するか迷いました。
イタリア留学中、有志とともにNPO法人の日伊文化協会を設立し、文化や学術交流を中心とした様々なイベントを企画・運営に携わっていました。例えば、留学先のピサにゆかりのあるガリレオ・ガリレイにちなんだ、子ども向けの科学実験ワークショップや、食育をテーマにしたキャラ弁作り、さらには東日本大震災とイタリア中部地震を受けて耐震構造やエネルギー問題に関する講演会など、多岐にわたる企画を行いました。また、医療・社会サービス分野におけるロボット活用に関する講演会を主催したほか、日伊の女性の社会進出とその経済効果について、登壇者としてイタリア下院議事堂で講演する機会もいただきました。
最終的には、イタリアに残ることを決意し、自ら起業するとともに、イタリアの大学で日本語教育に携わるなど、複数の活動をスタートさせました。
そんな折、ピサ近郊のヨッティング業界最大手であるベネッティ社が、日本人船舶エンジニアを探していると知りました。もともと工学部出身ですので、自身の肩書きは“エンジニア”。また、多言語を話す教え子たちのインターン先としても良い機会と考え、面談を申し込んだところ、その場でオファーをいただき、思いがけないかたちでこの業界へ一歩を踏み出すこととなりました。
Q3:具体的にはどんなプロジェクトを担当されたのですか?
ベネッティのリヴォルノ造船所で担当したのは、東京都の公共事業で35mの視察船の建造プロジェクトでした。会議、図面および書類作成、都庁職員や国土交通省の各種検査の対応など、すべて日本語が公式言語。けれども言語の壁以上に、日本の行政機関の組織構造や意思決定プロセスが、イタリアのビジネス文化と大きく異なるため、現場スタッフに背景や意図を丁寧に説明し、細やかな調整を行うことが不可欠でした。
また、日本の公共事業に伴う大量の資料提出に対応するため、日中業務を終えて、同僚が退社した後に印刷作業を続けるなど、負担はかなり大きかったです。特に日本からの視察団来訪や会議前は徹夜も多く、体力的に厳しい日々が続きました。
そのプロジェクトは建造から引き渡し、さらに2年間の保証期間まで無事完了しました。
その後、より専門性の高いリフィッティング(整備・改修)での経験を求めてベネッティを退職し、現在はジェノヴァのタンコア造船所に勤務しています。
Q4:その経験は今の仕事にどう活きていますか?
♦ 日本の働き方が活きる現場
東京都の公共事業は非常に多忙な現場でしたが、プロジェクトチームは常に前向きで、得るものの多い貴重な経験となりました。そして、体力的にも精神的にも厳しい状況に身を置いたことで、自身の限界を知り、「ここぞ」という局面で力を発揮するための集中力と持久力が養われたと感じています。
また、異なる文化の橋渡しをするためのコミュニケーション力や、プロジェクト全体を俯瞰しながら調整を進めるスキルは、現在の業務でも大きな強みになっています。私自身のようなバックグラウンドを持つ人間にとって、「目立たず、しかし確実に支える」ことはごく自然な姿勢ですが、異国の現場においては、そうした姿勢がチームに安心感をもたらすようです。
ヨットの現場では、マネージメント・エージェントやキャプテン、工事業者、職人など、立場、専門性、国籍も異なる多くの関係者と信頼関係を築きながら、工程や品質の管理を細部にわたって行う必要があります。その中で、物事を先回りして整えたり、表に出にくい部分にも手を抜かずに向き合う姿勢—いわば“縁の下の力持ち”のような働き方は、日本人として身についてきた感覚そのものだと思います。
そして、問題が起きた際には、感情的にならず、冷静に建設的な対話を通して解決に導くことを心がけています。自分が前に出るのではなく、相手が動きやすくなるように環境を整えるそうした支え方に、自分の役割を見出しています。
【中編】造船の現場とリフィットの実際
Q5:スーパーヨット造船の現場には、どのような専門家が関わっているのですか?
私は幸運にも、新造船の建造現場だけでなく、既存船のリフィットにも関わる機会を得てきました。どちらもスーパーヨットという特別な世界のものづくりですが、実務のプロセスや関わる専門家の構成は異なります。ここではその違いについて、簡単にご紹介します。
♦ 図面から始まる「新造船」
建築において、施主がまず惹かれるのは外観や内装のデザインでしょう。居住空間であれば快適性を、公共施設であれば機能性を重視されることが多いと思います。船も同じで、まず求められるのは洗練されたデザインや、車のようなスピード性能です。こうした美的・性能的な要望に応えるのが、ヨットデザイナーやインテリアデザイナーの仕事です。
しかし、海の上で安全に、快適に過ごせる船をつくるには、見た目以上に多くの専門家の知見が必要です。例えば:
- 船体構造や安定性、船級規格への適合を考慮した設計チーム
- 推進装置、スタビライザー、清水・排水・燃料ライン、空調などを扱う機械・システムエンジニア
- 照明、電源、ナビゲーション、バッテリーなどを担う電気・電子エンジニア
- 居住エリアやエンジンルームの換気・空調システムを設計する専門チーム
それぞれの分野に特化したエンジニアたちが、設計図面を用意します。
オーナー(または代理人)との調整を行うのはプロジェクトマネージャーで、建造コストの管理やスケジュール調整、造船所内の関係部署や業者との連携も担います。
一方、オーナー側からは、キャプテンやチーフ・エンジニアが建造時から現場へ派遣され、船級検査官とともに定期的に立ち合いながら、品質と機能を監督します。
そして実際の現場では、造船所の監督のもと、多くの専門業者が詳細図面にしたがって工事を進めていきます。
♦ 図面に頼らず、変化に即応する「リフィット」
私が現在担当しているのは、メンテナンスやリフィッティングの現場です。インテリアに関していえば、全体を一新するような大規模なインテリア工事は、オーナーが代わったときなどに発生し、通常はエリア限定でインテリアのリフィット依頼があったりします。
むしろ最も多いのは、以下のようなメカニカルな作業です:
- 機関まわりの定期整備
- 船級の定期検査対応
- 船体の塗装メンテナンスや補修作業
- 水漏れや電子機器の不具合など、緊急性を伴う問題への対処
多くの船には完全な図面が残されておらず、作業を進める中で予期せぬ問題が次々と見つかることも珍しくありません。しかも初夏のヴァカンスシーズン前に完了させる必要があるため、現場では常に迅速かつ柔軟な判断が求められます。
問題ごとに、必要なエンジニアや業者と現地調査を行い、内容に応じた最適な工事方法と見積をまとめ、キャプテンやマネジメントエージェントへ報告。造船所としての正式な見積書をオーナー側へ提出し、承認を得てから工事に着手します。また、作業を円滑に進めるために、周囲を汚さないための養生(保護シートの設置)や、専門の清掃業者の手配など、細やかな準備も欠かせません。
造船所が自社プランドで手がける新造船では、ある程度工程がパターン化されており、図面に基づいて着実に進められます。一方リフィッティングは、船によって仕様も状況もまったく異なり、毎回が新たな挑戦です。ある意味、マニュアル通りにはいかない現場ですが、それこそがこの仕事の醍醐味でもあります。
リフィットの現場では、異なる国・異なる時代・異なる造船所で建造されたスーパーヨットに触れることができます。オーナーの趣向、クルーの手入れの仕方、そして造船所ごとの建造思想とリフィット方法など、船のコンディションを見れば、それらが自然と見えてきます。予期せぬトラブルや制約にも前向きに対応しながら、不屈の精神と、船への愛情を持って問題を解決し、ヴァカンスの海へと再び送り出す—それこそが、リフィットの真価であり、現場に立ち続ける喜びと言えます。
Q6:イタリアの造船文化の中で働いて、驚いた点や苦労されたことはありますか?
♦ 異文化の中で働くということ
スーパーヨット業界全体を見渡せば、サービスを中心に女性の活躍は多いのですが、造船現場では男性が圧倒的多数を占めています。実際、私の勤務するタンコア造船所でも、女性社員の多くはインテリアデザインや経理、購買といったオフィス業務に従事しており、ヘルメットと安全靴を着用して現場に入る女性は、私を含めてわずか3人です。私自身、できるだけ周囲に頼らず、自分で動けるところは率先して動き、時には重い機材や資料を抱えて現場を移動することもあるのですが、それに対して、他の船で作業していた業者さんが、駆け寄って手を貸してくださることがあります。さすが、欧米ならではの「ジェントルマンシップ」の文化に支えられていると感じます。
もう一つ印象的なのは、チーム内における階層意識の希薄さです。年齢や職位に関係なく、意見を率直に伝えることが歓迎される風土があり、私にとっては非常に働きやすく、フラットな環境です。日本のように上下関係が厳しく固定されている組織とは、根本的に文化が異なります。
また、イタリアの職場文化における「人間らしさ」も強く感じる点です。例えば勤務時間中に家族から電話やメッセージが来るのは日常的なことで、それを誰も問題視しません。以前、女性同僚とオフィスを共有していた際には、悩みや日常の愚痴を聞くこと自体が、関係性を築くための大切なプロセスであると感じました。イタリアの職場は、合理性だけでなく、包容力と情のある空間です。
それとは対照的に、日本との文化的なギャップに難しさを感じる場面もありました。日本の行政機関とのプロジェクトでは、私はイタリア企業の代表として対応する立場にいたのですが、日本側の年配男性から、明らかなパワハラを受けたことがあります。おそらく、海外企業で責任あるポジションに就いている日本人女性という存在が、相手にとっては“生意気”に映ったのかもしれません。
Q7:「日本人だからこそ評価された」と感じた経験はありますか?
欧米での日本人の印象は、「高品質を求めて勤勉で努力家」、「真摯に役割に徹する」、「約束を守る」など。そのイメージを壊さないよう、特に注意を払っているわけではないのですが、普通に働いていても、日本人の気性が出ているようです。例えば、作業がスムーズに進むように事前に情報や資材を整えておく、工程や書類をきちんと管理して混乱を未然に防ぐ、工事の品質を事前にチェックしてクレームを回避する、といった日々の積み重ねです。
私がすべての機械系や電気・電子システムに精通しているわけではありませんが、現場の責任者として必要な判断を下すためには、専門家の知見を素直に借りる謙虚な姿勢が欠かせません。自分の知識の限界を正直に認め、職人の方々に率直に意見を伺うことで、彼らも丁寧に、わかりやすく説明してくださり、結果として現場全体の信頼関係がより深まっていくのを感じます。視点を変えれば、オーナーも船の専門家ではありません。だからこそ、相手の立場に立ち、どこまでを、どのように伝えるべきかを意識するようにしています。明確で簡潔な工事レポートを心がけるなど、自身の経験や知見を活かしながら、皆が気持ちよく動ける環境づくりに努めています。
また、見積の作成や業者への発注、工期の管理など、現場以外の事務的な業務も多くあります。自分が発注した工事の支払いが遅れた場合などは、業者の方々に対して申し訳ない気持ちになりますので、経理部門と粘り強く連携し、支払い予定が明確になるまで責任を持って動くように心がけています。そうした日々の対応を評価していただいているのか、急な工事が必要になった際に、信頼できる業者の方がすぐに協力してくださることもあります。現場では、書類ひとつ、手続きひとつにも人間関係が大きく影響します。だからこそ、「約束を守る」「相手の立場を尊重して動く」、そうした日々の姿勢が、結果的に現場をスムーズに回す力になっているのだと実感しています。
インタビュー後半へ続きます。


