スーパーヨットの船名学|Superyacht Nameology|#5
― 名は体を表す。海の上の美意識と規範 ―
スーパーヨットの船名には、時代の感性とオーナーの哲学が静かに映し出されます。
富裕層にとってそれは、単なる識別ではなく、自身の世界観を示す「ブランド・ステートメント」です。古典に由来する重厚な名から、簡潔で現代的な表現に至るまで──その一つひとつに、美学と戦略が息づいています。
続いて、印象的な船名とその背景を、写真とともに見ていきましょう。

A (エー)/119mモーターヨット(2008年ドイツ・HDW建造)
- データ:ロシアの実業家アンドレイ・メルニチェンコ氏がドイツの Howaldtswerke Deutsche Werft(HDW)に発注した。独自のプロジェクトだったため、ルーセンのようにスーパーヨット専門のところではなく、あえて軍艦や大型商船を手掛けるところを選んだ。
- 背景:オーナーの名前(Andrey)の頭文字。シンプルかつミステリアス。
- こだわり:「すべての名前の先頭に来る最初の文字」で、唯一無二を象徴。
ECLIPS(エクリプス)/162.5mモーターヨット(2010年ドイツのブローム・ウント・フォス建造)
- データ:ロシアの実業家ロマン・アブラモヴィッチ氏のプライベートヨット。
- 背景:防弾ガラス、ミサイル探知システム、2つのヘリパッドなど、所有者の地位と安全意識を体現。
- こだわり:Eclipsは「日食・月食」をさす神秘的な現象。建造当時は世界最大級だった。船名にふさわしい、まさに“他を覆い隠す存在”。
Serene(セリーン)/134 mモーターヨット (2011年 イタリアのフィンカンティエリ建造)
- データ:当初オーナーはロシアの実業家ユーリ・シェフラー氏だったが、2014〜15年にスーパーヨット市場で大型ヨットの転売益が注目される中、サウジアラビアの皇太子に売却された。
- 背景:「Serene=穏やか/静穏」。極めて高級で静かなクルーズ体験を象徴。
- こだわり:船名と設計に「静穏」「旗艦的ラグジュアリー性」を反映。市場動向に乗った早期の売却で、後の所有者もその価値を維持。

Eleven Eleven(イレブン・イレブン)/85mモーターヨット(2017年イタリアのベネッティ建造)
- データ:オーナーはイタリア系の実業家で、ベネッティとの長年の関係を踏まえ、品質とラグジュアリー性を重視して発注。
- 背景:オーナーの娘の誕生日が11月11日だったことに由来。家族への思いを象徴する、短く記憶に残る洗練された表現。
- こだわり:オーナーは「船名もデザインの一部」と考え、全体のラグジュアリー性や航海スタイルに合わせた名称を選定。市場では大型ヨットの価値維持を意識した戦略的な命名とも評価されている。
A、Eclipse、Serene、Eleven Elevenのように、船名にはオーナーの個性や哲学、時には家族への想いまでが映し出されます。ここからは、映画『007』への熱い情熱を船名に込めたジョン・スタルッピ氏のスーパーヨットをご紹介します。映画の題名や描かれる世界観と、船のデザインコンセプトを巧みに結びつけて命名された背景は、とても興味深いものです。

For Your Eyes Only(フォー・ユア・アイズ・オンリー)/36 m(1985年 米国 Denison建造)
- ロジャー・ムーア主演『ユア・アイズ・オンリー』(1981)から命名。
- スタルッピ氏が所有する、映画007シリーズ最初の大型モーターヨット。30ノット超えを目標にスピード重視の設計になっている。
数ある007シリーズの中から、あえてFor Your Eyes Only「あなただけが知って欲しい(=極秘)」を採用した背景には、明確な理由があります。それは、ジェームズ・ボンドが体現する、ラグジュアリーで洗練された佇まいと、常に限界ギリギリを生きる刺激的なスピリットを、このプロジェクトが見事に重ね合わせているからです。さらに「世界最速」という揺るぎない目標に挑む姿勢からは、プロジェクトチームとオーナー双方の並々ならぬ情熱と覚悟が強く感じられます。

Octopussy(オクトパシー)/43.7m(1988年 オランダ Heesen建造)
- ロジャー・ムーア主演『オクトパシー』(1983)から命名。
- 高速性能重視で発注され、50ノット超の速度を誇る。小型ながら大胆なデザインと高性能エンジンを搭載し、注目を集めた。
インドを舞台に象、トラ、ワニなどが登場する『オクトパシー』のスリリングな世界観を踏襲して、スピード感だけでなく奇抜なインテリアを採用しています。さらにトランサムの船名も、映画と同様にタコを模したデザインになっています。

Moonraker(ムーンレイカー)/35.3m(1992年ノルウェーのNorship建造)
- ロジャー・ムーア主演『ムーンレイカー』(1979)から命名。
- スピード記録を狙った軽量化設計で流線型の船体。長距離クルーズにも対応可能な設計を採用。
すでに複数ブランドの自動車販売で確固たる地位を築いていたスタルッピ氏は、世界最速のラグジュアリーモーターヨットの販売を見据えてMoonraker を開発し、最高速度66ノットという驚異的な記録を打ち立てています。流線型の船体は、まるでジェームズ・ボンドが宇宙へ飛び立つシャトルを彷彿とさせる洗練されたデザインです。

- ピアース・ブロスナン主演『ワールド・イズ・ノット・イナフ』(1999)から命名。
- 最高速53ノットの Octopussy、66ノットの Moonraker を凌駕する性能を目指し、スタルッピ氏自らが Millennium Superyachtsを創設して建造した渾身のモデル。70ノット近くを目指して設計された。
The World Is Not Enough ──「世界を手に入れても、なお満足できない」という言葉どおり、世界最高速記録を達成した後も尽きることのない野心を映し出した命名です。本モデルは Millennium 140 として販売されています。
しかし、この四艇以降、2025年現在に至るまで、スタルッピ氏は世界市場の動向を鋭敏に見極め、チャーターや転売を視野に入れながら、より大型で居住性を重視したディスプレースメント艇の発注や購入改名に舵を切り替えました。Casino Royale(49.7m)、Skyfall(57.9m)、Quantum of Solace(52m)、Spectre(69m) など、近年公開された映画タイトルを戦略的に取り入れ、時代性と市場性を巧みに反映させています。
また、氏が発端となった「ボンド系ネーミング」の文化は広く根付き、現在では映画と同名の船の事例が大幅に増えています。実際、私が担当している船のひとつに、フロリダを拠点にカリブ海を航行する “Casino Royale” があります。スーパーヨット界における映画由来のネーミングはすでにひとつの定番となっていますが、世界的に見ると、特にアメリカを中心に広がっていると言えるかもしれません。
それでは最後に、日本の船名にも触れましょう。
「〇〇丸」は古くから安全や長寿を願い、丸い形=円満や安定の象徴として名づけられてきた。
スーパーヨットの華やかな命名とはまた異なる、日本独自の美意識と航海への祈りを感じさせる伝統です。
スーパーヨットの船名学|Superyacht Nameology ― 名は体を表す。海の上の美意識と規範 ― 本シリーズの記事へ以下からアクセスできます。