イタリアのジェノヴァで、数十億円規模のスーパーヨットの整備・改修に携わる日本人エンジニア 吉田友香子(よしだ ゆかこ)氏。建築から異分野へ転身した経緯や、現場で働き感じるスーパーヨット業界の動向、そして日本市場への期待についてインタビューを行いました。
この記事は、インタビューの後半です(前半はこちら)。下記目次から関心のあるテーマへすぐに移動していただけます。
目次
【後編】スーパーヨット市場の変化と日本の可能性
Q8: 世界の超富裕層がスーパーヨットに求めるものは、ここ数年でどう変わってきていると感じますか?
♦ ポストコロナの建造ラッシュと品質への影響
パンデミックの収束とともに、世界中の超富裕層がこぞって「静かで安全な贅沢」を求め、スーパーヨットに強い関心を示しました。各造船所は前例のない建造ラッシュを迎え、40m未満の複合素材(FRPやGRP)のヨットから、スチールハル+アルミ上部構造のメガヨット、ジガヨットまで、あらゆるタイプが次々と契約・建造されました。日本の実業家・前澤友作氏が所有する114mのジガヨットも、まさにこの流れの中で、ドイツのルーセンにて発注されたと考えられます。
その一方で、供給不足やコスト高騰、人的リソースの逼迫により、工期管理は非常にシビアになりました。優秀なサプライヤーは複数のプロジェクトを抱える中で、より条件の良い案件を選ぶ傾向が強まり、造船所との関係性にもこれまでとは異なる緊張感が生まれています。
♦ 見た目以上に問われる“中身”の質
カンヌやモナコのボートショーなどでお披露目される新造船を観察すると、タイトなスケジュールで仕上げられた形跡が随所に見られます。リフィットの現場でも、「15年以上前に建造された船の方が、むしろ素材の質が良い」と感じるケースは少なくありません。近年では素材自体の品質・耐久性が低下しており、新しいヨットほどメンテナンスサイクルが短くなる傾向が顕著です。
しかし、それを“標準”として受け入れている新規オーナーが多いのも事実です。消費文化に慣れた世代にとっては、定期的な買い替えやアップデートが自然な発想となっており、長く乗り継ぐという文化が希薄になりつつあると感じます。
♦ スーパーヨットに対する“情熱”の変化
私が入社した当時、年配の同僚からよく耳にしたのは、かつてのオーナーたちは、ヨットの建造そのものを「人生の一大プロジェクト」として捉えていたという話です。設計のやり直しを何度も依頼しながら、理想の空間を造船所と共につくりあげていく。そうしたプロセスへの情熱と、完成時の感動はひとしおで、進水式やデリバリーパーティも非常に盛大だったと聞いています。
一方で現在の新規オーナー層は、契約上定められた納期通りに、あらかじめ提示されたレンダリング通りのヨットが完成することを優先しています。「夢の実現」よりも、「効率的でスタイリッシュな所有体験」へのニーズが高まっている印象です。
♦ 新造より“賢く楽しむ”傾向へ:チャーターとリフィット需要の拡大
直近1~2年を見ても、スーパーヨット市場における新造船のピークは一旦落ち着いたように感じます。政治的・経済的な不確実性が影響し、特に制裁対象となっているロシアの富裕層は沈黙を保っています。その代わり、中央アジア、特にエネルギー資源を保有するカザフスタンを中心とした新興富裕層の存在感が増しています。
しかし全体としては、新造船への投資に対する慎重姿勢が広がっており、その分、チャーターや中古ヨットのリフィット需要が急伸しています。
新たに建造するよりも、既存のヨットを自分らしく改修して所有する、あるいは商業利用するという発想は、資産の分散や価値の最適化という観点からも理にかなっています。
♦ 今、造船所に求められる対応力
このような変化を受けて、造船所の現場では、新造船、保証工事(急ピッチで建造されたことによる不具合の対応)、そしてリフィット案件の3つを並行して抱える、非常に高い対応力が求められています。目まぐるしく変わる市場ニーズと、オーナーの期待に応える柔軟性・品質管理の徹底が、今後の競争力を左右する重要なポイントになっています。
以上が、私の感じる「スーパーヨットを巡る超富裕層の価値観の変化」です。かつては“唯一無二の夢の実現”だったヨット建造が、今は“スマートな贅沢”へと進化している――そんな時代の流れを日々の現場から強く実感しています。
Q9:日本市場がこれから世界と競っていくためには、どのような視点や体制が必要だと感じますか?
♦ グローバル市場で活かす、日本のものづくり力
海外のスーパーヨットに、日本製の機器や製品が搭載されているのを目にすると、やはり日本人として誇らしく感じます。たとえば、マストの中央に掲げられたFURUNO(古野電気)の航海機器、テンダーボートやジェットスキーに使われている日本製の船外機、ホシザキの製氷機などは、実際にマリーナで頻繁に見かける存在です。
しかし、製品の品質が高い一方で、アフターサービス体制の整備が追いついていないという課題もあります。リフィッティング案件では、某日本メーカーのジャイロ・スタビライザーを取り外し、他社製品に置き換える提案を受けることが何度かありました。その理由は、部品交換やメンテナンスにおいて、欧州圏内での対応が困難であるという点です。製品そのものは素晴らしくても、世界中で確実にサポートが受けられる体制がなければ、選ばれ続けることは難しいという現実があります。
逆に言えば、グローバルに展開するアフターサービスネットワークを確立できれば、日本企業がスーパーヨット市場でより大きな存在感を発揮できるポテンシャルは十分にあると感じています。
♦ 広がりつつある日本人オーナー層の動向
近年、ヨーロッパの主要なボートショーでは、日本人の姿を目にする機会が明らかに増えています。カンヌ・ヨッティング・フェスティバルでは、日本のエージェントに案内されていたオーナーご夫妻が複数組いらっしゃいました。現在、日本に輸入されているヨットは30m級までが中心で、40m以上への関心も確実に高まりつつあります。
コロナ明けのモナコ・ヨットショーでは、私の勤めるタンコア造船所が展示していた50mのヨットに、日本人の方からお問い合わせをいただき、実際にご案内させていただいたケースもありました。けれども、円安が長期化している現状では、ヨーロッパの造船所にとって、日本人富裕層は主な顧客ターゲットとはなりにくいというのも事実です。
それでも、私たちは希望を持ち続けています。日本のお客様にとって、現地に日本人がいるというだけで大きな安心感につながります。私自身も、日本のエージェントと密に連絡を取り、日本の顧客情報や動向を社内のセールスチームと共有することで、どんなタイミングでも丁寧な対応ができるよう体制を整えています。
♦ 日本を魅力的な寄港地とするための鍵
世界のスーパーヨット市場における日本の位置づけを考える上で、私が特に注目しているのが、「日本を寄港地としてどのように魅力づけていくか」という視点です。これはまさに、私が大学院で学んだ都市計画や地域発展の理論が活きる領域でもあります。
現在イタリアを拠点とする私にとっても、日本沿岸の寄港ポテンシャルに関する情報に対して、常にアンテナを張り、国内外の動向を敏感にキャッチするよう心がけています。
例えば沖縄の一部地域では、かつてマリーナ開発の構想が具体的に進められていた際、現地関係者からご相談をいただき、イタリアのプロフェッショナルチームとの意見交換が実現したこともありました。こうした動きは、日本が今後スーパーヨットを受け入れる体制を整えていくうえでの、重要な兆しだと捉えています。
一方で、現状では依然として、大型艇の受け入れが可能な港湾設備が整っていない地域が大半です。ハード面でのインフラ整備は、寄港地としての日本の魅力を高めるための基礎であり、これを抜きにしてスーパーヨットを本格的に迎えることは難しいと感じています。
さらに言えば、個人所有やチャーターによるスーパーヨットを、大型クルーズ船用のターミナルに係留させるというのは、欧米におけるスーパーヨット特有のライフスタイルや哲学とそぐわない部分があります。スーパーヨットには、スーパーヨットなりの“たたずまい”と、それにふさわしい環境整備が求められているのです。
♦ 世界のキャプテンが語る、日本の“惜しい”点
実際に世界中を航行しているスーパーヨットのキャプテンたちから、日本に対する具体的なフィードバックもいただいています。あるアメリカ人キャプテンは、「日本のエージェントに問い合わせメールを送っても、返信が来ない」と語っていました。これは単なる言語の問題ではなく、スーパーヨットを迎える体制そのものがまだ十分に成熟していないことの表れだと感じました。
また別の指摘としては、日本の海象条件が良い時期に、日本だけを目的地とする航海ルートが組みにくいという点があります。
たとえば、ポリネシアやオセアニアを巡り、東南アジアを経由して北上、日本に寄港した後、再び南下しなければならないルートは非効率的で、寄港地としての魅力を高めるには、それ相応の理由づけと価値提案が不可欠です。
♦ 日本の海を“目的地”にするために
それでも、日本にはスーパーヨットを迎えるポテンシャルが十分にあります。大切なのは、「日本の海にわざわざ訪れるだけの価値がある」と思わせるためのコンセプトづくりと、それを実現するハード・ソフト両面の整備です。
まずは、大型艇が安心して寄港できるマリーナの整備が大前提です。その上で、マリーナ周辺に高級レストラン、ラグジュアリーブティック、ナイトライフなど、富裕層の感性に響くようなサービスが展開されることで、はじめて魅力的な寄港地として成立します。
よく見かける「マリーナ隣接のアウトレットモール」は、残念ながらスーパーヨットオーナーには響きません。彼らが求めているのは、もっと静かで洗練された“本物の贅沢”です。
♦ 世界の舞台で競うための視点と準備
日本が本気でスーパーヨット市場に参入し、世界と競っていくには、製品や技術のクオリティだけでなく、それを支える「仕組み」と「文化」の両輪が必要です。
プロダクトに自信を持ちつつ、グローバルマーケットの常識や期待に寄り添う視点――それが今、最も求められている変化かもしれません。
【メッセージ】“肩書き”より“役割”の時代—境界線を越えて働くということ
Q10:分野や肩書きにとらわれずに、自分の「役割」や「居場所」を見出していくために、どんなことを大切にされてきましたか?
建築を学び、日伊の文化交流に携わってきた私が、いまスーパーヨットの改修現場にいる―そう聞くと意外に思われるかもしれません。けれども私自身にとっては、ごく自然な流れでした。常に、「自分の専門性をどう活かせるか」「いま、この場所で求められている役割は何か」を見極めながら、目の前の一歩を丁寧に積み重ねてきた、その延長線上に今があります。
イタリアの造船所で働く中で、欧米におけるスーパーヨット産業の成熟ぶりを日々実感する一方、私の視線はいつも「日本の海の可能性」に向いています。例えば、日本とイタリアはいずれも南北に長く、海岸線を活かしたインフラの展開や船舶の運用形態にも共通点が多くあります。異なる文化のなかで共通点や違いを見つけることで、日本に還元できる視点が見えてくる―それが、海外で働く意義のひとつだと感じています。
来年には、懇意にしているあるスーパーヨットオーナーご夫妻と日本を訪れる予定です。世界的な投資家でもある彼らとともに、日本のウォーターフロントの可能性について意見を交わし、その視点を日本の自治体や関係機関とも共有していく予定です。
NPOで日伊の文化交流に携わっていた頃と同じように、いまも私は「自分の経験をどのように日本に還元できるか」という問いを持ち続けています。
実際、造船所での仕事と並行して、災害対応やバリアフリー、環境配慮を備えた次世代型フェリーボートの導入に向けたスタートアップにも参画しています。また、建築と海の分野を結ぶ試みとして、日本人建築家とイタリア人エンジニアの協働による50mのコンセプトボートを提案し、欧米の専門誌にも取り上げていただきました。
私にとって「境界を越えて働く」とは、国籍や肩書きにとらわれず、その時々に求められる役割を誠実に果たすことです。学問も現場も、建築もヨットも、その信念は変わりません。そして今、心から実感しているのは、「他者を理解し、文化を超えて協働する力」こそが、これからの“ものづくり”において最も必要とされる資質だということです。海外に身を置き少し離れた場所から日本を見つめ直した今、自己のアイデンティティを問うより先に、「自分に何ができるか」を問い続けたいと思っています。

